cold skin

Mai no som infinitament lluny d’quells qui odium. Per la mateixa raó, doncs, podríem creure que mai no serem absolutament a prop d’quells qui estimem. Quan em vaig embarcar ja coneixia aquest principi atroç. Però hi ha veritats qui mereixenn la nostra atenció, i n’hi ha d’altres amb les quals no ens convenen els diàlegs. – la pell freda, by albert sánchez piñol

INTRO
【冒頭】進航する汽船の船底を海底から見上げ、そこに海豚(イルカ)の群影が従う。船上の男が映されその男のモノローグがそこにかぶさる。この男は、その名前すら物語の中では告げられない。結局には、テロップの最後で「友人」とだけ記される男だ。この無名の男が向かう先は、絶海の孤島。港からも主要航路からも遠く離れ、航海日数にして、「67日前に出航した」といい、原作では「イルカの遊泳し追従してきた群れが離脱してから33日後」、「最初に水夫が水タバコを切らしてから19日目」が経過してやっと現れた島影とある。そこは、そんな極寒の、南極海に浮かぶ、小さな岩礁だ。小高くなった場所に立ち、360度ぐるっと回転してみれば、全長1.5キロ程の島全体が見渡せ、各所で有毒の地熱が吹き出し動物の姿も、草木すら生えないような果ての地。これがこの物語の舞台だ。
QUOTES
私たちは、憎むものから永遠に遠ざかることは決してない。その同じ理由で、すなわち私たちは、愛する人に対して本当の意味で親密になることは決してないだろう。非情な事実ってヤツを、私が乗船した時には十分に理解していた。しかし注意を喚起するに値するだけのいくつかの真実はあり、あとには私たちには対話するに似つかわしくもない他者だけが残された。- 「冷たい肌 」アルベルト S.ピニョール

……en una solitud d’exili, far, antàrtics, miracles, res

冒頭のモノローグで、男の目的も語られるのだが、その島は気象の観測地点になっている。つまり男の目的は、現在でいう「人間海上ブイ」だ。男はこのブイそのものというわけ。海面に浮いている気象データを測定し記録、送信するあの「浮(ウキ)」になっちゃうんだね。島全体が一つの海上ブイ点みたいになっている。

時代は第一次世界大戦を挟んだ、その前後に、アイルランド独立戦争で愛蘭人が大英帝国+アイルランド連合王国から独立を勝ち取り、大戦で一旦「独立」が反故にされ、その後に再び独立を掲げて内戦状態になった時期である(詳しくは各自お調べください)。よって、この時代に「海上ブイ」なんてものはなく、お前が生身で行ってきて気象とお前さんの人生のデータをすべて集めて来いってわけです。この孤島のポイント地点で風速や波の高さなど記録を取り、一年後に本局へ帰還と同時に送りつける仕事だ。ここで繰り返すと、そんな仕事に加えて男の目的は何なのか?それは逃げ出したかったそうです。何もかも、すべてから逃げ出したいと言っている。アイルランド人で孤児であった男は、独立運動に青春をかけて、中途半端に挫折、不完全燃焼でくすぶっているだけに、まだエネルギーは内在するが、厭世感から孤島の1年間期限付きの気象観測官の任務を引き受けた。その任のためにこの島へやって来たこの無名の男だが、こんな限られた空間で一体何が起こるのか?

着任早々、引き継ぎの官吏人がいない。どこぞへ消えていなくなってしまった。この島には、観測官用の掘っ立て小屋の事務所兼「寝床」があり(そこでさり気なく、1914年6月28日のサラエボで皇太子が暗殺されたことを伝える古い新聞記事が出てくる)、すぐそばには灯台があって、海上信号技官(灯台守)が駐在している。この島には男とこの技官の2人しか住んでいない。呼べば声が届きそうな感覚。船長達は男を島に残して足早に去っていくが、この技官、唯一の名前を持った登場人物で、男の名はグルナー。グルナー氏は、任務期間も終わり本来なら帰船できたが、何が良くってか、この島で駐在を続けることを希望する。彼はスッポンポンで登場、普段も陰部もさらけて日光浴する、その挙動は大夫イっちゃってる。

ああっ登場する人物が2人?こんなシュチュエーションから想像するに、映画として面白みの無い、性もない展開になりそうだ。そう、まさにその通りであった。あるいは、非常に面白いこの原作をすでに読んでしまっている場合、内容だけをたどるのであれば、特に見るまでも全く無い?そんなことはない。原作読んだ人は少し黙っていよう。さて、狭っちい孤島が舞台、まるで密室空間のホラー映画みたいな展開を予想させるが、そう、あの、同じ監督の作品『ディヴァイド』みたい?何も事件が起こりそうもない、起こりようもない設定で、一体何が期待できるのか?見る前では当然そう思ってしまうだろう。ところで、登場するキャラはもう1人、いや、もう1匹、程なく追加される。

映画の醍醐味はその映像化している点にあると思っている。視覚的に訴えて来るものは、文章や音楽などとも違い、衝撃の度合いが違う。
この作品で最大に期待していたのは、その原作の世界を視覚的に表現し映像化する点だ。その期待を裏切らない点も確信していたが、冒頭のイルカが汽船に群れをなして随行、遊泳している場面や、孤島に置かれた人間の孤絶感などは圧巻で、男が海に向かい沈みゆく太陽を一人見やる場面はそんな視覚的な吸引力を持っていた。この時点で自分は満足であった。

もしいろんな原作を読んでいて、映画化された作品を観た後にもう一度その原作を読む際、仮に映画の物語や出来が及ばなくても小説自体が映像を再度補ってくれ、明確な映画で得られたイメージを浮かべながら小説作品を読み進めることができる点は大変に嬉しい。それが素晴らしい映像で再現されていた場合は尚更だ。原作と映画化された作品を、下手に比較して優劣や、昔見たお気に入り作品の格上げに利用しようといった意図などは全くなく、自分はこういう見方、読み方をしている。両方を相互に行ったり来たりしながら、つまり原作を読んだり映画化作品を観たりしながら、でもそれぞれを別ものとして最初は鑑賞するようにしている。

この映画作品を一番おそらく注目しているのは、ここまで黙っててもらった原作をすでに読んでいる読者ファンであろう。随分と前から映画化の話があって何度も変更・頓挫していたし、読者はすでに内容は知っているのだから、映画の脚本については取り敢えずおいておき、是非、まずは観てみてこの原作の視覚化、その映像に圧倒されて欲しい。私が言うまでもないが。期待はしていて楽しみにもしていたが、原作も未読、映画はまだ観ていないという方で、内容も知らないという方は、単純で分かりやすいストーリーながら、異様な話の展開に顔をしかめるなり戸惑うなりして欲しい。『フロンティア』や『ディヴァイド』の暴力性は抑えられ、あっさり「グロ」度はなくなっている。以下に内容について付記しておく。

STORY
【物語】男がこの島に着いて二日目の夜を迎えた時、突然何者かが家屋内に侵入、とっさに男は相手にアイスピックを突き立て追い払うが、その異形のものは手負の傷を受けて退散した。夜が明けるのを待ち、外へ。外には足跡が海の方へと続きそこで消えていた。グルナーのもとへ助けを求めに行くが、灯台の扉は固く閉ざされ彼は出てこない。技官グルナーは何も教えてはくれないし、島での生活を何も手伝ってはくれないことは冒頭で分かるが、湧水池も「オレ様の泉」とペンキ書きされている始末だ。

すぐに夜の暗闇がやって来て(非常に早い。瞬時に夜)、男は小屋に仕舞われてあったライフルを見つけ、弾を充填、警戒をし息を潜めているが、外から異様な鳴き声とともに、男が外に見た影は、灯台の光に照らし出され、大きさ人間ぐらい、姿形も同じような生き物で、それが海からゾロゾロと上がって来て、小屋に向かって一斉に襲撃しに来る。男は抗戦するがその大勢による攻撃の手が止まることはなく、倒れたランプが引火し炎上する小屋から男は脱出、身を隠し難を逃れるが、翌朝、家を失った男は、グルナーが要塞と化した灯台から出てくるその後をつけ、湧水池のある洞窟まで辿り着く。その洞窟の中で男は怪物のメスと思われる毛布にくるまり隠れていた一体を見つけ射殺しようとした時、グルナーが現れ男を制止する。

このメスの怪物はグルナーが捕獲したものだった。殺さない交換条件として男は、灯台へ身を移しグルナーが抱えるこの島に関する情報と援助を申し出た。海から上がって来るバケモノたちが夜になると襲って来るといまいましくグルナーは男に説明する。一方、この雌の怪物は気性が優しく好奇心も旺盛で、穏やかな時のグルナーにはよく従っているようだったが、実際は怯え支配された、隷属状態であった。3人での生活が始まって、夜は灯台に篭って共同戦線を張り、2人は襲来する怪物を次々に来る日も来る日も迎撃・撃退させるのだったが、夜には生き残りを賭けて交戦し、そして朝を迎える。その繰り返しの中で、常軌を逸し興奮状態にあるグルナーの暴力性が、エスカレートしていく。彼はまるで奴らを殺戮するために生きているようだ。その興奮状態のまま、この怪物のメスをグルナーは家畜のように使役し、はけ口として犯し続けていることを男は知る。最初は戸惑い、やがて常軌を逸した暴力性が伴ってからは男は嫌悪感を持ってグルナーを見るようになり、男自身も、グルナーによって殺されかけた。

男とグルナー、そしてメスの怪物との共同生活がかもす雰囲気、関係は不思議に思えた。この海からやって来た怪物も男へは次第に慣れ親しんでいく。男はメスの怪物にアネリス(Aneris)という名前をつけ、徐々に、最初は同情から、やがてこの怪物のアネリスを好きになっていく感情が現れ、アネリスも男にその生存の対象が傾いていく。そしてその2人の気持ちに気づいているグルナーとの確執がそれまでの3人の関係性を変えてしまい、やがては崩壊することを感じさせ、破滅へと向かっていく。

なぜ彼らは毎晩人間とこの要塞化した灯台を襲撃しに来るのか?この果てしのない戦いが何か物悲しいんだな。難破船からダイナマイトを引き上げて仕掛けたりする、グルナーは、アネリスの仲間をおびきよせ殺戮の為に、アネリスに悲痛な声を上げさせる。見ている自分は、生き延びるためとは言え、この虚しさが込み上げてくるような無意味な戦いに、そもそもこいつらは本当に敵なのか、アネリスの仲間は、このアネリスを救い出そうとしていたのかもしれない等と思い始めてしまった。相手の執拗な攻撃に対して暴力と狂気をエスカレートさせていくグルナーの一方で、男は浜辺で見かけた怪物(彼らを「シタウカ」と呼ぶようになる)の幼体(こども)と交流し、彼らの仲間たちへも、アネリスを通して平安を得られるような特別な思いを持ち始めていくのだが・・・

POINTS
【解説】この映画を見終わった時、それを説明しようと思い浮かんだのが、「異種婚姻譚」の説話体系であった。人間以外の異種と結婚するという神話・伝説、説話や昔話が、日本だけではなく世界中には広まっていて、ギリシャ神話や北欧神話等のように体系化(『古事記』はその体系を作品化すらしている)されたものや、グリム童話や『遠野物語』などのように収集もされている。

日本の鶴の恩返しの説話も、鶴と人間との婚姻関係、結ばれた縁を説いているし、カエルの王子様の童話も人間が魔法でカエルにされていてその魔法がお姫様によって解かれたという話だ。この映画の「シタウカ(Citauca)」は、「人魚伝説」のように海洋世界(逆から読んで「Acuatic」という「海洋生物」の意)から来た人間とは違う異種であり、「アネリス(Aneris)」の名は人間が与えた「人魚(逆から読んで「Sirena」)」を意味する名前であるが、説話や神話にみられる、異種の間に交わりが成立した、あるいは破局したというストーリーの背景は、異なる生活や習俗を持った文化圏での交流があった点、異なる信仰、その信仰の対象とした異なる神々との融和や文明が破壊されてきた過程があった点を一般的、相対的、断片的に示唆している。

物語中で名付けられる「アネリス」の名は、男のモノローグの中で語られるだけで、実際に映画では相手に名前を与える場面自体はないのだが、この名前はギリシャ神話で記述される姉妹「コンコルディアとディスコルディア Concordia/Discordia 」のことである。この名前は対になった女神であり、秩序と無秩序(order/disorder)、調和と不協和(harmony/disharmony)を司っていた。コンコルディアは「協和や相互理解、婚姻における「調和・融合」の女神。ディスコルディアはこの反意。この女神姉妹は別名「エリスとアネリス Elis/Aneris」である。原作の記述を借りれば、この名前が最初に出てくるのは、アネリスが仲間と交信していた時、それが歌のようでもあり、その言葉が「シタウカ」と聞こえたとある。「”シタウカ”、それはつまり”アネリス”だ」と唐突に語る。これは語感の問題と「アネリス」が持つイメージ的な語彙の問題だ。異種(異文化・異民族)間で、婚姻による「秩序と調和」をもたらす「アネリス」の名をもつ、海から来た「人魚」や「古代ギリシャの女神」をイメージ化されたこのクリーチャーは、まさにこの説話・神話体系(興味を覚えた方は「クトゥルー神話」参照)を具現化する一例でもある。

また、神話を離れ、この物語を個別の例として、例えば、この映画の原作は、カタルーニャ語で書かれている。その「カタルーニャ語」というメタファーを、著者自身や彼らの歴史として、作品を読み解いていく場合、物語中で男によって語られるアイルランドの独立への戦い、シタウカの来る日も来る日も繰り返される襲撃や、アネリスの蹂躙されたキャラクター、そのグルナーの暴虐なイカれっぷり、そして原作にはあった、男もグルナーのように時にそのように暴君として振る舞う人間として描かれている等、これらのメタファーとも重なって来る。ちなみに題名の「冷たい肌」とは、アネリスとの行為を示し、両生類のカエルのような外観で水洋性生物であるそのスキンに、人間としての温もりとは違う、その温度を「冷たい」として対比しているものである。ここから、その異種間で成立した関係やそれを暴虐に犯し破壊してきた人間に対するメタファーを表すものと解釈できる。

この映画自体は、原作を離れて一級の娯楽として仕上がっているが、しかしそれだけではなく、見終わった後にも余韻として十分に見たものに何かを残し、その点についての考察をするきっかけを与えてくれている作品だと考える。

最後に、交戦の場面が物悲しいといった点について。それは相手に対する共鳴へ至る過程だからだと思う。夜の戦闘で生き残り、朝を迎えて、再び一瞬にして夜になる・・・ その繰り返しの中で、ある戦いが明けた朝2人が、そこはまるで、砲弾の煙がまだ立ち込めた戦場を歩いているようで、グルナーは息絶え絶えのものにとどめをさし殺してまわっていくが、それを目にしながら従う男の中で、何かが思い出されていく・・・ 繰り返される戦いが何も生まず何も残さないという悲しい、虚しさの、ここはその最たる場面であるが、しかし男に何かが思い出される中、不思議なもので、この音楽「war」とともにそこには希望のようなものを感じるのだ。

虚しい戦いが続く中で、日本の剣豪・武蔵への言及があるのが面白い。日本の哲学者・武蔵と語られるのだが、彼は『五輪書』の中で「武芸(戦いの芸術)の真価を理解するものは少ない」といっている。既に戦さの世は終わり武芸の真価が失われた太平の時代にである。男は続けて「優れた戦士であるとは、戦いで防御する、つまり守るべき大義により評価されるのではない。しかし彼、武蔵は、戦いから悟りの道に達する術を知っていた」と物語中で語る。彼らがくる日も繰り返される戦いからたどり着いた「道」、終着点はどこにあったのか?

戦いが明けた朝、グルナーは疲労から慢性的に酔いつぶれ、男はその部屋で空になった酒瓶を手に取り、おもむろに拾い上げたグルナーの冊子の中にボロボロになった写真が挟まれているのを見つける。女性の写真だった。裏には三度、愛している、とだけ書かれていた。それを見たとき、男はおそらく何かを悟った。そこにいるのはもう一人の自分なのだと。絶望しこの最果ての孤絶した地で一人孤独な自分がそこにもう一人居ることを男は理解した。そう理解した時、グルナーという他者を受け入れるとともに、男は海からやって来る一族の中へ向かい、男は迎え入れられて、そして男は彼らの中へ入って行く。しかし、そこへグルナーが現れ・・・

これは余談だが、海中から現れる怪物が、「カエル人間」と流布されている点、かくいう寄稿者の段落アイコンをカエルにして見た、が気になっていた。作品ではどのように捉えられているのか、原作から「怪物」の記述を拾い上げ少し考察してみる。怪物についての最初の記述は、男が2日目の夜に襲撃を受けて、翌朝グルナーの元へ駆け込む場面に出てくる、「S’imagina que fossin alguna cosa més que monstres submarins?(奴らは水中に棲息するバケモノ以外の何ものでもないってあんた想像できるか?)」という記述である。「monstres submarins(水中に棲息する怪物たち)」とある。英訳文だと「monstrous amphibians(バケモノの両生類たち)」とあり、異なったものを対象にして違った表現になっている。まあ、両生類はカエルであり、「カエル人間」の出処はこの辺にありそうだが、この訳を受けたのか、英語版の単行本の表紙は、両生類か爬虫類などのピンホール眼がデザインされている。右写真は、実際の映画からの設定資料で、このクリチャーのデザインはかなり初期に、その作品の全容すらわからないときに公開されたもの。まるで『The Shape of Water』の半魚人だ。作品中の完成形モデルは手足のあるベルーガ、またはイルカ人間って感じだ。これにエフェクトがかかるからリアルでよくできていた。

【付記】上写真:1900年頃の蒸気船の航路を示す図。中写真:古代ローマ・ヘリオガバルス帝の「クィラ・セウェラ妃」の硬貨・裏面に「コンコルディア」の記名。AD. 221年。下写真:「カタルーニャ語」が話されている地域。


citauca-acuatic, aneris-sirena, mena de paràlisi, més mental que física, l’amor……

MEMO
【記録】映画『コールド・スキン Cold Skin(原題)』/ 原作:アルベルト・サンチェス・ピニョール Albert Sánchez Piñol『La Pell Freda(原題)』(訳書名『冷たい肌』)/ 監督:ザヴィエ・ジャン Xavier Gens 作品:短編『BTK – Born to Kast』(2000年), 短編『Au petit matin(原題)』(2005年), TV短編『Sable moir』(2006年), 『ヒットマン Hitman』(2007年), 『フロンティア Frontier(s)』(2007年), TV短編『Les incroyables aventures de Fusion Man』(2009年),『ディヴァイド The Divide』(2011年), 短編集『ABC・オブ・デス The ABCs of Death』(作品名『XXL』2012年), 『 The Crucifixion(原題)』(2017年), 制作『 Hostile(原題) 』(2017年)/ 脚本:へスース・オルモ Jesús Olmo/ エロン・シーン Eron Sheean / 撮影:ダニエル・アランジョ Daniel Aranyó / 音楽:ビクター・レイズ Víctor Reyes / 主演:デヴィッド・オークス David Oakes / レイ・スティーヴンソン Ray Stevenson / アウラ・ガリード Aura Garrido / 制作国:スペイン、フランス / 使用言語:英語 / 日本公開未定/ 制作年2017年